
「日本一の医師になる」7歳での決意。天野惠子さん|60歳を過ぎて今も旬
更年期障害に苦しんだ経験から、女性外来の創設に尽力した医師の天野惠子さん(82歳)。医師の大半が男性という時代にキャリアを積み、ときには理不尽な思いをしながらも「日本一の医師になる」という高い志を胸に日本の医療界に変革を起こしてきました。(からだにいいこと2025年4月号より)
目次
天野惠子さん/内科医

あまの けいこ
1942年、愛媛県生まれ。東京大学医学部卒業。東京大学講師を経て、94年に東京水産大学(現・東京海洋大学)保健管理センター教授・所長に就任。99年、日本心臓学会のシンポジウムで性差医療の概念を日本で初めて紹介。女性外来の創設に尽力し、自身も2002年から千葉県立東金病院副院長として女性外来で診察を担当。09年より、埼玉にある清風荘病院にて女性外来を担当。82歳の今も週2回の診察を続ける。著書に『81歳、現役女医の転ばぬ先の知恵』(世界文化社)など。
母の言葉がきっかけで7歳にして医師を目指す
現在では全国各地の医療機関に設置されている「女性外来」。しかしほんの20年ほど前まで、医療の世界では「男性と女性の体に根本的に異なる点はない」と考えられ、女性特有の症状や不調の多くは見過ごされてきました。
この定説を覆し、日本で初めて「性差医療」の概念を紹介したパイオニアであり、女性外来の創設に尽力したのが医師の天野惠子さんです。自身が更年期障害で苦しんだ体験から、女性医師による女性患者のための医療の必要性を痛感したという天野さん。82歳になった今も、現役医師として女性外来で診察を続けています。
天野さんが医師を志したのは、まだ幼い7歳のころでした。
「仲良しだった友人の祖母が亡くなり、両親がいなかった彼女はどこかの親戚にもらわれていきました。寂しかった私は、母に聞いたんです。『人はどうして死ぬの?』と。すると母は『惠子がお医者さんになって、死なないようにしてあげて』と言ったの。そのとき、私は医師になると決心しました」
昇進できない理由は「君にはご主人がいるから」
しかも天野さんが目指したのは「日本一の医師になる」こと。この目標は現在まで揺らぐことのない生涯の誓いになりました。
東京大学医学部に進んだのも、「日本一の大学に入れば、日本一の医師になれると思った」というから首尾一貫しています。卒業後は循環器内科の専門医としてキャリアを歩み出しますが、大学紛争の影響で東京大学医学附属病院では研修を受けられず、米国やカナダに留学。現地の病院で研修医として勤務したのち、31歳でようやく東大病院の医局に入局しました。
無給の医局員という立場でしたが、天野さんは研究に外来診療にと、がむしゃらに働きました。しかし医師としては充実していた半面、組織内では次第に「ガラスの天井」を感じ始めます。
「10人ほどいた男性の同期は次々と有給の助手に昇進しましたが、私が助手になったのは最後。だから私は41歳まで無給で働きました。同期といっても、私はすでに海外の病院で勤務経験があり、大学卒業後すぐに入局した年下の同期に教える立場だったんですよ。でもそうした実績は評価されなかった。その理屈は『君には稼いでくれるご主人がいるからいいでしょう』というものでした」
天野さんは海外滞在中に結婚し、28歳、30歳、37歳で出産も経験して、3人の娘を持つ母親になっていました。既婚者というだけで不当な扱いをするなど、今の時代なら許されませんが、当時はその理屈が通ってしまうほど医局は圧倒的な男性社会だったのです。ところが当の本人は淡々としていました。
「私は常に感情がフラットなの。うれしいことがあっても舞い上がらないし、嫌なことがあってもへコまない。いちいち落ち込んだり、腹を立てて周囲とケンカしたりしても、状況は良くならないでしょ。だったら研究や患者さんの治療に集中したほうが有意義です」
こんなにつらいのに誰も症状を治せない
医師としてやるべきことに集中し、着実に実績を積み重ねるなか、転機となったのが自身の更年期でした。50歳で子宮筋腫と診断され、子宮に加えて卵巣も摘出。そこから大量発汗や極度の冷え、全身のしびれ、倦怠感など、次々と不調に襲われます。症状のつらさもさることながら、天野さんが愕然(がくぜん)としたのは、「自分の症状を誰も治せない」という現実でした。
「婦人科の医師や更年期の専門医にも相談しましたが、いくらつらさを訴えても『そうなんですね』で終わり。当時は産婦人科もほとんどが男性医師で、自分たちは女性特有の更年期症状を経験していないので、アドバイスができないのよ。患者がこんなに苦しんでいるのに、誰にも理解してもらえないなんて、このままでいいはずがない。『これは私がやるべきことだ』と使命感を抱いたんです」
さまざまな文献を調べるうちに出合ったのが、米国で研究が進んでいた性差医療でした。この分野をいち早く学び始めた天野さんは、1999年に開催された日本心臓病学会のシンポジウムで、国内で初めて性差医療について紹介。翌年には、女性特有の心疾患に関する著書も出版しました。
「その本を全国の医科大学の教授に送ったら、多くの先生が『天野さんの言う通り、男女の体には違いがあるはずだ』と賛同し、『僕たちは何をすればいい?』と協力を申し出てくださって。それで私は『男性医師では気付かないこともあるから、女性医師が診察する女性外来をつくりませんか』と提案したんです。2001年には鹿児島大学病院に日本初の女性外来が創設され、その後5年間で43カ所の大学病院に広がりました」
自分の体を実験台に老いのプロセスを研究中

強い使命感のもと、信念を持って粘り強く行動し続け、日本の医学界に変革をもたらした天野さん。「日本一の医師になれたと思いますか」と聞くと、「それは他人が評価することだから、自分ではわからないわね」と笑いつつ、「私はとにかく患者さんを治したいの。だから常にベストを尽くして、これからも医療の世界に変革を起こしたい」と言葉に力を込めました。
「今取り組んでいるのは、私が日々体験している『老い』のプロセスを、次の世代へ伝えること。私の世代は男性医師がほとんどだから、女性の老いについて発信できる医師は限られます。だから自分自身の体を実験台に研究し、加齢とともに女性の体がどう変化し、どう対策すべきかをみなさんにお伝えしたい。それが今の私が果たすべき役割だと思っています」
天野惠子さんが歩んだ奇跡
1945年(3歳)敬愛する両親と過ごした幼少期

国家公務員の父と、専業主婦の母との間に生まれる。父の仕事の都合で、幼少期は岐阜や秋田など地方で過ごす。医師になるきっかけをくれた母は、天野さんが「とにかく頭のいい人」と絶賛する聡明な女性だった。
1963年(21歳)医学部同期102人中女性は10人だけ

高校卒業後、東京大学に入学し、医学部医学科に進学。当時は女性の4年制大学進学率が3%の時代。102人の同級生のうち、女性は天野さんを含め10人だけと圧倒的少数だった。最前列の右から3人目が本人。
1974年(31歳頃)東大病院の医局で医師の仕事に打ち込む

海外留学を経て帰国し、東大病院の医局で働き始める。子育て支援という概念すらない時代に、娘たちの世話は家政婦に頼み、医師の仕事と研究に全力で打ち込んだ。写真は学会で司会を務めたときの様子。
2004年(61歳)性差医療を紹介し女性外来創設に貢献

日本に性差医療の概念を紹介し、女性外来の設立に尽力。当時の千葉県知事・堂本暁子さんの呼びかけで設置された千葉県立東金病院の女性外来で、天野さんも診察を担当。写真は性差医療・医学研究会学術集会当時。一番右が本人。
2018年(76歳)喜寿を迎えてまだまだ現役

喜寿の祝いを1年前倒しで開催。「私は人との出会いに恵まれている」と話す天野さんがお世話になった人や、感謝している人たちが集まった。一番左が堂本暁子さん、一番右が恩師である坂本二哉先生。
ともに歩む大切なもの|恩師の言葉入りの本
「医局時代に理不尽な経験をした一方で、私が所属していた研究室の長であり、心臓病学の権威として知られる坂本二哉先生は、私を正当に評価し、研究を応援してくださいました。これは先生がご自分の著書に私へのメッセージを入れてくれたもの。この言葉があったから、男性社会の中でもがんばれました」

謹呈 天野惠子学姉
真摯、不言実行のファイト・ウーマンぶりにはいつも敬服しています。久方ぶりに医局に現れた「大物」として、今後の大成を期待しています。
昭和52年4月 坂本
人生を支える一言(本人直筆)

「恩師の坂本先生からいただいたメッセージの中でも使われている言葉です。『不言実行』とは、あれこれ言わず、自分がなすべきことを黙って実行するという意味。女性や既婚者であることを理由に昇進を阻まれても、不満や愚痴を言わず、医学の道を歩み続けた私の姿を先生はちゃんと見ていてくださったのだと思います」
「自分の主治医は自分」という意識を持って
女性が自分の健康を守るには、健康や医療に関する正しい情報を入手して活用できる「ヘルスリテラシー」を上げて欲しいと話す天野さん。「自分の体のことを他人任せにせず、『自分の主治医は自分』という意識を持つことが大事です」
取材・文/塚田有香 撮影/武井メグミ
(からだにいいこと2025年4月号より)
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